外資あるあるブログ

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曽祖父、山本寛の座談会記事

外資あるあると全く関係ない忘備録的な投稿です。

JRAのGATEJに行ってきました。写真は資料室の蔵書から用意していただいた、曽祖父、山本寛の座談会記事です。

世田谷にある馬事公苑が改装されて11/3に再オープンします。戦前、山本は陸軍少将で日本の騎兵部隊の強化に尽力し、そのキャリアから馬事公苑の初代苑長となりました。JRAに曽祖父に関する文献は何か残っていないかと何年か前から問い合わせをしていましたが、パンデミックとオリンピックに向けての改装でお返事をいただけていませんでした。しかし、少し前にご連絡をいただき、この記事を見つけていただきました。JRAに大感謝です。

 

座談会 30周年を迎えた馬事公苑

 

出席者

山本寛(初代苑長)

野本宇兵衛(元理事·苑長)

奥田譲(元理事)

河崎健三(元職員)

佐野常光(元苑長)

木村義衛 (現教育課長)

司会/遠藤三正(現苑長)

 

 

動物のいる庭

 

遠藤 / 馬事公苑も、この九月で三十周年を迎えます。実は先日、私のところに電話がかかってきて、馬事公苑の"苑"というのは、どういう意味か、というものだった。 名称を決めたについては、出典、来歴もあったのだろうが、それは置いて、ひとつ今日的な解釈を考えようと思って、辞書をひいた。”園”は植物のある庭、"苑"は動物のいる庭ということだった。そういえば、神苑、鹿苑ということばもある。さすがに、昔、名称をつけた方は、考えていられる、と感心したものだった。どういう由来で、〝馬事公苑"とつけられたのですか。

河崎 / 特別な来歴はないが、"苑"は新宿御苑の"苑"と同じだ。普通の”園"とは違うよ、というぐらいの意味だった。

遠藤 / 馬事公苑には、 馬のほかにも生き物がいたのですね。

山本 / くじゃくがいた。 浅香宮から頂戴したものだと思う。野犬が、くじゃくを全滅させたことがあった。森に小屋があって、昼は広場に放すのだが、夜、小屋の下から、土を掘って野犬が侵入した。 営繕課が地上に囲いをしたのだったが、営繕課よりも犬の方が利口だったわけだ。(笑)

遠藤 / ほかにも飼っていたのですか。

山本 / ほろほろ鳥を飼っていた。村上さんが持ってきたものだった。村上さんは、山林局長、馬政局長官をやった人で、馬事公苑には大きな夢をもっていた。

木村 / 創立後三十年たった最近は、"馬事公苑"というのが、普通名詞化している。関西に杉谷馬事公苑というのがあるし、長崎にも、長崎馬事公苑というのがあるそうだ。韓国に、韓国馬事公苑もある。

遠藤 / 三十年という年月が感じられますね。初代苑長のころとは、 馬事公苑も変わりましたでしょう。

山本 / 戦争を境にして、考え方もほかのことも、すっかり変わっている。当時、苑訓というのを、村上さんと合作して作ったが、 「至誠以って騎道作興すべし」「努力以って百練自得すべし」「和協以って人馬一如たるべし」という、目標どおりのものだった。

遠藤 / 馬事公苑は、最初から騎手養成が目標だったのですか。

山本 成り立ちは、皇太子降誕奉祝記念とし五万坪の土地を買ってあった。そこへ、日本競馬会、日本馬匹協会、日本乗馬協会、国際馬術協会らが集まって会議をした。いつでも活用できる施設を作りたいということだった。これが、のちに馬事公苑となった。

遠藤 / そうすると、これらの団体に、それぞれの意図があったわけですね。

山本 そうです。 競馬会は騎手の講習、 乗馬協会は青少年の馬術訓練と、馬術を教える人の訓練、国際馬術協会はオリンピック選手養成の教育、馬匹協会は、博覧会、共進会みたいなものを、と目的は多かった。

 

障害飛越は神業の山本苑長

 

遠藤 / 当時の競馬に対する考えは、今とずいぶん違っていたと思いますが。

山本 / 競馬の施行が即ち馬の改良増殖と馬術普及だった。 競馬会本来の目的が、軍馬の改良であり、軍馬の素質、生産をあげるためには競馬が先立たないと、ということだった。

遠藤 / 競馬が、いわば国家的な事業だったわけですね。

山本 / 理事長の安田さんが、日清戦争、北清事変で、日本の馬が、ロシヤの馬に比べて老人みたいで、太刀打ちならん、 明治大帝からも、なんとかしなければ、ということで、競馬も復活した。競馬が先に立たないと、軍馬改良も思うにまかせないということだった。戦争に勝つための馬を作るために、競馬の発や騎手の腕を養うことは、意義があった。ところが、戦さに負け、軍馬の必要がなくなった。 運搬の手段もトラックが発達して、馬の必要がなくなった。 今日の競馬は馬の改良、増殖ということよりも、むしろリクレーションになっている。ということで、競馬の正体も変わってきている。同時に、 馬事公苑も変わってきた、と思う。 競馬会に、トレーニングセンターができたことだし、馬のトレーニングと調教師、騎手の養成の目的を、そちらへ移して、専心したらどうかな。 馬事公苑を競馬会の仕事からはずして、乗馬やオリンピック選手養成、青少年訓練、馬術教官養成の場所にする方が適当と思う。

遠藤 /  山本さんは、苑長になられる前は、現役の軍人とうかがいましたが......

山本/ 軍人として、フランス、イタリアへ留学したり、豪州へ軍馬購買へ行ったこともあります。そういうわけで、馬に縁が深い方だったわけです。戦争に勝つための馬を作る、すなわち、競馬の発展、騎手の腕を養うということに意義があった。

遠藤 / 一口に馬術といっても、いろいろあるのでしょう。

山本馬術は、人為馬術(エキタシオン・アルティシエール)と自然馬術 (エキタシオン・ナトレール)がある。日本流にいえば、鞍上人なし――これは馬が主体、つまり自然馬術で、競馬もこれに入る。障害やポロ(打球)などもそうだ。 馬を苦しめないように、馬自体に重きを置くやり方だ。馬が自然に野山を駆け回る状態に近いわけだ。反対に、鞍下馬なしというのがあるが、これは人為馬術で、人が主体になる。高等馬術、馬場馬術、修練、古典馬術などがみな、これに入る。馬を手のうちに入れて、いわば、進んだ形の馬術といえる。だから、競馬会は自然馬術、国際馬術協会は人為馬術、とそれぞれ異なる。だから、騎手が馬を手足のように扱うというのは、本当でない。

遠藤 / 外国で馬術を習われたのですか。

山本 / ええ。馬術家であり、馬術の先輩である遊佐(幸平)さんが人為馬術の方でしたので、私はむしろ、自然馬術をやりたいと思った。そのために、フランスのソーミュールから、わざわざ希望してイタリアへ行って大障害を教わってきた。

遠藤 /  国によって、人為馬術の国と自然馬術の国とがあるのですか。

山本 / イタリアは、国柄か、自然馬術に徹底している。人為馬術の国は、ドイツ、スエーデンだ。とくにドイツは、人為馬術に透徹している。フランスは、どちらかというと自然馬術だが、徹底した自然馬術ではない。両者の中間的な存在ともいえる。

遠藤 / 苑長になられたのは、昭和十四年三月ですね。

山本 競馬会幹事の元陸軍中将の吉岡豊輔さんの指導を受けていたが薦められて、こちらへ来た。当時は、支那事変が起き、大東亜戦争が続くという情勢でした。私は当時現役で軍馬補充部と陸軍兵器本廠に籍をおいていた。

河崎 / 当時は、山本さんも元気がよかった。馬術の大家だった、障害飛越のうまさは神さまといわれた。学生時代から尊敬していた人が苑長になる、というのでみんなで喜んでいた。山本さんという人は、いばらない、あまりものいわない、おせじもいわない、そこにいいところがあった。陸軍の少将といえば、世間的にも大変なものだったが、いばらなかった。山本さんが初代苑長になられて、馬事公苑の雰囲気ができたようなものです。

遠藤 / 佐野さんは、いつこられたのですか。

佐野 昭和十五年、馬事公苑ができた年にきた。どういうわけか、私は馬事公苑には五度、縁があった。昭和十九年、修錬所という名前だった。山本閣下が場長で、私はその下にいた。戦後、騎手養成所といって、そのときの所長だった。最後はオリンピックにかかる昭和三十七年、苑長になって行った。

木村 / 山本閣下のころ、苑長室には、こわくて入れないくらい恐れ多かった。

遠藤 /  終戦までいらしたのですね。

山本 / 六年ぐらいしかいなかった。馬事公苑に行って理事になった。 一期五年だった。 次の時期には、一年半か二年で終戦になった。

遠藤 / 終戦後、軍人であった方々は、御難だったようですが。

山本 / マツカーサー司令部の命令で、将校以上の人は、競馬会から袖をつらねて出た。 競馬会の内部でも、命令がくる前に、そろそろそういう指令が来るだろうから、競馬会に関連しているものが軍人だと、競馬会自体も危くなる、と農林省畜産局長などが動いたのだろう。馬は、兵器だったから、馬に関する仕事に軍人が関係してると、兵器増産にかかわっているとみなされたわけだ。

遠藤 / 軍人をやめて馬事公苑に専心していられましたが、終戦のけはいとか終戦後のことなど、うすうすでも感じておられましたか。

山本 / 全く思いもよらなかったことです。 馬事公苑への出入りを終戦後禁じられたときには、驚きました。

遠藤 / 現役の軍人でいられた山本さんが、馬事公苑の苑長になられたについて、競馬会の方からも強い勧誘があったと伺いましたが。

山本 / 村上さん(当時副理事長)、安田さん(同理事長)から、やってくれんかといわれた。

遠藤 / 山本さんは幼年学校からの軍人志望で、銀時計組だったとか。陸軍をやめるのも、未練もおありだったのではありませんか。

山本 / 苑長になると同時に軍人をやめて、その後、戦争が始まった。子供のときから軍人を志願して、戦さに出るのは自分の務めと思っていた。なぜ軍人として立てなかったか、と思うと残念であった。その上に、軍人をやめて馬事公苑へ移ったことを、戦さを避けたように誤解する人がいて、無念であった。

遠藤 / 陸軍の許可はすんなり出たのですか。

山本 / 戦争の匂いもなかったから、陸軍省も許可してくれたのでしょう。ただ、階級が上になると、上のご裁可を仰がなければならなかった。農林省と陸軍省の交渉があって、簡単には運ばなかったようだ。各方面から陸軍省に交渉してくれたようだ。

遠藤 / 村上さんから強く勧誘されたことのほかに、ご自分なりの決心があったと思われますが......

山本 / 一生を軍人ではいられないし、馬は趣味でもあり、老後も楽しくすごせよう。一生馬の仕事を、と思った。

木村 / 苑長がいらっしゃるときは、 経堂の駅まで、平服のときは馬車が、乗馬ズボンのときは馬がお迎えにいった。

山本 / 日曜もなしに、暇さえあれば行ったものだった。当時、原っぱだったが、川崎さんと二人で開墾した。設計は奥田さんに頼んだ。競馬会の営繕課でもやった。 芝馬場はポ口競技(打球)、騎馬道は競馬のトレーニング、砂馬場は障害、大障害飛越、高級馬術、馬場馬術という純馬術をやるように、いろいろ考えて設計した。

 

馬事公苑で能力検定競争

 

遠藤 / 当時は、馬事公苑長専任という具合にはいかなかったでしょう。

山本 / 苑長のほかに、教道課長。昭和十八年ごろまで中山競馬場長。十八年から府中の場長兼務。 ほかに、大日本騎道会指導部長として青少年の訓練をやっていた。そして、戦争が激しくなると、能力検定競走をやった。

遠藤 / ご苦労の中にも、おもしろいこともありましたでしょう。

山本 / 馬事公苑ができるころ、都内の小学校の子供たちに、馬の知識を教えに行ったり、女優が馬に乗りに来て、落ちてベソをかいたり、小夜福子さんが、芝居で馬に乗るのに、動かせなくて乗っただけで写真を取ったり。

遠藤 / ひとり何役もで、戦争が激しくなっていく。 お仕事も忙しかったでしょう。

山本 / そのほかに、常務理事になってから業務部長も兼務していたから、競馬会の馬を買い上げて、能力検定競走をやらせたり、馬を北海道や東北へ疎開させた。私にとっても初めての仕事だったが、競馬会にとっても前代未聞の仕事だったため、東京や京都へ、買い上げなどの手慣れない仕事で、いくらで買ったらいいものやらわからず、下手に口をすべらせると、利害関係で問題になった。馬主も手をかえ品をかえて口を割らせようとするから苦心した。能力検定の番組を作ったりもした。

遠藤 / 軍人さんには思いもかけないお仕事だったわけですね。 馬事公苑長時代で、よかったと思われた仕事は、どういうものですか。

山本 / さきの五万坪のほかに、 一万五千坪を買いたした。将来、人為馬術の殿堂を作る大計画だった。坪二十二~三円だったから、今から見ると、競馬会にはずいぶんよかったんじゃないですか。

遠藤 / 馬事公苑の設計が実現するまでのお話をきかせてください。

野本 / 昭和六七年ごろ、用賀村で、耕地整理を国助成でやっていた。間のびのある土地を集めたら、五万坪ほど出た。日本競馬協会で、その土地を買ったらどうかという話があった。当時は農村でも都市でも、動力源といえば馬以外にない。農村振興、産業振興という観点から、動力源である馬をもっと活用して、国民一般に、馬事思想の振興をはかろうということで、土地を買った。

遠藤 / 馬事思想の振興ですね。

野本 / 農林省馬産課から私、陸軍省馬政課の方と、余った土地五万坪で、馬事思想普及の殿堂を作ろうということになった。

遠藤 / 昔のおもかげはありませんね。

野本 / 昭和九年か十年ぐらいだったか、再三現地を訪れて、構想を練った。日本は雨が多いから、馬術競技も立派な屋根のあるところで、天候に関係なくやれるように、と競馬会の方でも考えたと思う。

遠藤 / そのころの社会情勢はどうでしたか。

野本 / 農村の疲弊で、あまり贅沢でも、貧弱でもいかん、とむずかしかった。なかなかまとまらないから、日本の技術者を海外に視察にやるといいと思って馬政課の人に意見を出したら、早稲田大学の内藤多仲さんを派遣させた。当時、オリンピックの匂いがして、反面、国際情勢は日増しに険悪になってくる。 せっかくの名案を作ったが、今の覆馬場でない、角馬場で、木造のお粗末なものになった。

 

騎手講習を始める

 

遠藤 / オリンピックの馬場にしよう、という意図はあったのですか。

河崎 / もちろんありました。日本で馬術競技をやるにも、陸軍の施設しかなかった。名称も馬術競技場とか、いろいろ考えた。

遠藤 / 設計は競馬会でやったのですか。

奥田 / 私は昭和十二年に競馬会にいたが、全面的に、内藤さんにお委せをした。建築は営繕課、全体の構想は山本苑長を中心に行なわれた。

遠藤 / 覆馬場は当初の計画にあったのですか

奥田 / 鉄筋コンクリートの、当時としては相当に斬新な設計だったが、計画は流れた。 覆馬場は諦めて、事務所と厩舎をやろう、と作った。資材が窮屈で、馬場の土を府中から運んだり、それを運ぶトラックのガソリンが窮屈で苦労した。できたのが、以前の事務所、厩舎 、馬場だ。

遠藤 / 工事中のご苦労話などお願いします。

奥田 / 建築は内藤さんにお委せしたものの、馬場が困った。大手業者に入札させたが、値が開いて落札しなかった。

遠藤 / 馬事公苑の木造の以前の建物はよかったですね。

奥田 / ありがとう。建築家が見にきて、今どき珍しい、とほめてもらった。 馬事公苑の性格を考えて、モダーンでクラシックなもの、モダーンでありながら軽薄ではいかんと考えた。玄関ホールは、いまだによかったと思う。 ベランダの手すりも、よかったでしょう。最初からの建物が、オリンピックの前に壊すまであった。

河崎 / 奥田さんがいる間はきれいだったよ。(笑)ちょっとでも汚したら大変だったから。

遠藤 / 騎手講習を、馬事公苑で始めたいきさつは、どういうことだったのですか。

木村 / 昭和十三年から、騎手講習を始めました。昭和十二年、習志野の騎兵学校でやっていたが、中山競馬場で昭和十三年、こちらでできるという前提でやった。第一期生が、調教師になった保田さんらだった。

遠藤 / 騎兵学校で、騎手講習をやらなくなったのは、どういうわけですか。

野本 / 時局がら、騎兵学校では、そういうノンキな仕事はできないから、自から技術練磨して競馬会独自でやれ、といわれた。さあ大変というので、 馬事公苑実現を促進した。

木村 / 調教師の講習をやったのは十七年でした。二回やった。

河崎 / 建築そのものも講習生が泊まるところも作ってあった。

木村 / 十七年当時、函館大作さんや坂本さんがいた。伊藤勝吉さん、上田調教師、清水茂次さん、美馬信さん、村田東一さん(だく馬でした)。鈴木信さん、二本柳さん、佐藤重治さん、東京が若いのをよこしてみんな怒った。ラジオ体操、国旗掲揚は毎日だった。

遠藤 / 伊勢神宮をお祭りした話というのは、どういうのですか。

山本 / 私が東京駅にお迎えして、夜、馬事公苑まで帰った。みんなその時刻まで待っていた。

河崎 / 夜中の十二時を期して奉納する。 門の前にズラッと列んで、かがり火を焚いて待っていた。当時、自動車を使わず、馬車で全部やった。 ビクトリア調のいい馬車だった。鈴があって、取者が前にいて、掛け声が気持ちよかった。馬と取者と馬丁がついていて、王侯の気分だった。

遠藤 / 伊勢神宮はどこへ祭ったのですか。

佐野 / 森の中だ。

佐野 / いつなくなったのだろう。 野本さんがなくしたのかい。(笑)

野本 / 多分そう(笑)。あんまりきたなくなって、子供の遊び場になっていた。屋根をひっぺがして、子供が雀を取りにくる。当時、財政が豊かでなく、修復の余地がなかった。 恐れ多いが、時勢も変わったし、あまりひどいんで荒れ放題にするよりも、むしろ一旦整理した方がかえっていいだろう、と昭和二十四、五年ごろ、撤去した。苑内は草ぼうぼうで、にんじん、大根を作っているころだった。

河崎 / 桜を紀元二千六百年記念に植えた。 ところが、戦後、本部が移ったが、終戦後木炭がないから、桜を切っちまおう、といった人がいた。

木村 / 戦争末期で燃料のないころだった。武蔵野の木を燃やすときくと、河崎さんが「切っちゃいかん。戦争に敗けても木は残るんだ」といった。

山本 / 村上さんが、山林局長をやったことのある、やかましい人で、公苑の木は一本でも切っちゃいかんといっていた。

 

オリンピックで復興

 

遠藤 / 村上さんと河崎さんがいなかったら、馬事公苑の木は坊主になっていたかもしれませんね。戦争中は、どんなでしたか。

木村 / 馬が、軍の重要物資輸送のために、徴発されていく。

河崎 / かわいそうだったよ。徴発されても、人間は元の場所に帰ってくることがある。馬は、どこへどう行くか、帰ってくることはない。

木村 / むしろをしょって、わらぐつ二個。 人優間の奉公袋と同じで、 持っていくものが決まっていた。

山本 / 愛馬の碑のところに、その馬たちのたてがみを埋めてあるはずだ。

遠藤 / 馬は徴用されたが、人はどうでした。

河崎 / 戦争中は、どんどん応召したが、ぼくは残った。

木村 / あとは、おばさんたちや年寄りだけだった。ぼくも十八年に徴用になった。

遠藤 / 空襲はどうでしたか。

河崎 / すごかった。焼夷弾を受けて叩き消した。四月十日の大空襲のときだ。防空壕から出たら、百メートルばかり火の海だった。道路が燃えている。空をみると、空中戦だった。

木村 / 材料廠がやけたんでした。

河崎 / 上着をぬいで、叩き消した。

遠藤 / 馬事公苑を襲った目的は、なんだったんでしょう。

山本 / 馬と材料廠の中間で巻きぞえを食ったんでしょう。

遠藤 / 東条さんが見えたのは、なにかあったのですか。

木村 / 民情視察のために、馬事公苑に、馬に乗ってきた。中半種のみすぼらしい馬だったので、山本苑長の青霞という馬を、名を陣頭と改めてさしあげた。

山本 / 青はよくないから。というのは、私が乗った馬でその前に、青江という馬があった。目黒騎兵学校のころで、有名な馬だったが、障害飛越のときに、肩から落ちたことがあった。その前は、青畑という馬で、馬ごと回転して、馬は頚骨を折ってしまった。さしあげた青霞は、第二青霞で、私が陣頭と改名して、競馬会からさしあげた。

遠藤 / 戦後、馬事公苑が、なんとかかっこうがついたのは、いつごろですか。

河崎 / オリンピックからです。 石坂理事長に「是非私にやらせてくれ」と頼んで、許可をもらった。 芝を探しに、日本全国の山を見てまわったものだ。 馬事公苑の芝のはりかえと造園と覆馬場をもと通りにした。

木村 / 戦前、馬事公苑の職員は、全部馬に乗れなきゃいけないと、各自乗る馬が決まっていた。事務官も公認だったから、会計さんもみんな乗った。安田理事長が馬好きだった。

遠藤 / 最後に、今後の馬事公苑に対して、おことばを戴きたい。

山本 / 移り変わりが多く、よく存続され、競馬の公正維持に貢献を大いにされた。 馬事公苑の開苑式には、安田さん初め馬に乗れる方が多かった。理事長、副理事長、理事、役員と。今のみなさんにも、ぜひ、馬に乗ることをお薦めしたい。競馬自体のためにも、日本の馬術発展のためにも、馬事公苑の発展を念願してやまない。

遠藤 / 貴重なお話をありがとうございました。